LOG IN

『座布団が、空を、待ってる。』 兎村彩野

by 半空文学賞

『座布団が、空を、待ってる。』 兎村彩野

 悲しみなら、そこにある画面に小さな文字で書けばいい。わずか百四十文字という窓枠に叫べばいい。どうしてだろう。それができない日がある。悲しみでもなんでもない日の、教室の白カーテンに差し込む西日のような。影だけがこの世界。

 制服のスカートに、ホーム下を通り抜けて風の塊が吹き込んできた。立つ脚を組み替えたら鞄に付けたことちゃんのマスコットが揺れた。太腿も膝裏もふくらはぎも、この世界と私の境界線がない場所は、チクチクと敏感になる。心は世界と触れていないはずなのに、同じ感じがした。

 電車はこない。足が疲れていた。ホームのベンチに座る。座布団が敷いてある。どれも柄や色が違い、学校の教科書やノートの表紙みたいだなと思う。

 枯れた畑の匂いが、庭のゴミ焼きの煙と混ざって鼻の奥に届く。振り返らない。どこからくる匂いかは知っている。昨日から急に寒くなって制服の中にカーディガンを着た。上着が少しモコつく。袖と肩の突っ張りがまだ慣れない。秋も冬もまだこれから。ゆっくり慣れるしかない。

 昨日の放課後、嫌なことがあった。進路指導の先生から空欄のままになっている進路調査書を早く出せとのこと。夏からずっと悩んでいた。もはや悩みすぎて、これは「悩み」ではなく「困っている」なのかも知れない。

 この街で生まれて、祖父母と母と四人の暮らしが長く続いた。父は小さな頃からいない。記憶もない。家族と離れることがずっとなかった。ゆっくりと老いていく祖父母と、忙しく働く母を見て育ち、私はナニモノになればよいか分からなかった。もし祖父母が体調を崩したら母は働けなくなる。

母にもしもがあれば祖父母のお世話は私にできるのだろうか。

 同級生が言うような「将来」を私は家族以上の広さで考えられなかった。ナニモノかという感覚は、いつも家族の外側にあるように感じ、私は持っていけないモノのように感じていた。なぜだろう。いつも小さなうしろめたさが心の中にある。小石くらいのサイズの。重くはない、けれどなくなることもない。みんなが同じ石を持っているのかも分からない。ただ、これを不安と呼ぶと少し違う。

 電車がきた。立てなかった。目の前でドアが開き、人が降り乗る。小さな余白の時間。ドアが閉まる。シューという音。ホームに響く車掌さんの声。黄色い電車は目の前から左へ消えていく。将来もあの電車のように規則正しくやって来て、駅のように分かりやすく並んでいればいいのに。

 学校はナニモノにもなれない私を許してはくれない。ナニモノになっていいか分からない私に答えをくれない。この気持ちに悲しみという名前は似合わない。なにか分からない名前のない気持ちを私たちは持つ。明日もこのホームで、きっと私は同じ気持ちで追いつけないナニモノかに悩むのだろう。しょうがない。もうしょうがないのだ。

 今日が終わろうとしている。太陽は低い山に吸い込まれていく。次はあちらの世界を照らす。ナニモノでもない私も、ナニモノかになった誰かも、平等に照らす。ナニモノでもない私に、この世界は優しい。

 新しい電車がきた。先ほどの電車とほぼ同じ黄色の電車。今日も明日もあまり変わらないのと似ている気がした。電車に乗る。ドアが閉まって振り返る。電車のドアの角が丸い窓から、先ほどまで座っていた座布団が見えた。あの座布団は私が立ち上がるまで空を見ることができなかった。私が今ここにいて、座布団は空に出会えた。座布団のために、私は少しだけ前へ進む。

OTHER SNAPS