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『はこぶもの』

by 半空文学賞

『はこぶもの』

 私は喫茶店に向かっていた。今日は朝から雨が降っていて、日頃から冷たい空気を更に冷やし続けていた。帰宅路から一本逸れた小道にそのお店はあった。つい先日学校帰りにたまたま見かけた純喫茶なのだが、こじんまりと佇む雰囲気がとても好みで、いつかの週末に寄ることを頭の片隅で決めていた跳ねた水で足元を黒く濡らした木の扉を引き店内に入ると、一番奥であろう席に座った。スーツ姿の男性がひとり丸机に新聞を伸ばしているだけで、静かだった。食事時を外して日が暮れる前に来れて良かった。別段今日ここに来ると決めていた訳ではない。午前中は家でダラダラと過ごしてしまったが故に、台無しになりそうな休みを少しでも取り戻したいが為の外出である。私はそれを雨のせいにしていた。

 大学の入学祝いに買ってもらったコートとマフラーをハンガーに吊るし、少なくとも2時間程は居座るだろうと思い、厨房が忙しくなる前にそれなりのメニューを注文しておいた。昼食は自宅で済ましたのでお腹は空いていないが、勉強に励む内にどうせ軽食を取ることを見越した采配だ。文字を追い、文字を書くのは意外にもエネルギーを消耗する。例え一日中座りっぱなしでも、晩ご飯は美味しいものだ。そんなことよりもこのご時世に珈琲一杯ではバツが悪いと思ったからである。

革製の手提げ鞄からA4サイズのノートを取り出し、椅子を引き直した。カバーも付けず、鞄の中でもみくちゃになったノートは角が無くなり、弁当箱の中のおにぎりのようだった。参考書を広げ、カモメが二匹飛んでいるようにテーブルに並べると、背中を丸めた。一品目の料理が届き、ちょうど文章の気になるところに黄色いマーカーを引いた時だった。私はふとあの日の事を思い出していた。

 俯き気味に吐いた白い息が真っ赤なマフラーで濃く見える。ショートケーキは白に赤だから美味しそうに見えるのだろうか。じゃあ赤に白だとそれはどう感じるのだろう。そんな風に毎日のようにどうでも良いことばかり考えていた。点数の評価よりも評判やウワサが気になる。明るく努めてはいたが、中学校は空間もコミュニティも狭い世界で何処と無くうんざりしていた。ただ、あの日だけを除いては。

 約束なんて自分からは絶対にしなかったし、していても前日にはいっそ死にたくなるくらい面倒になり、実行したくなかった。それくらい何故か昔から苦手で、嫌いだった。でもその約束は決行日が楽しみで待ち遠しくて、毎日毎日、出掛ける準備を繰り返していた。当日わたしはお気に入りの赤いマフラーを巻いていった。所々に白クマのかわいい刺繍が入っているのが好きだった。お互いの私服なんて初めて見る上に、見られるのも初めてで不思議な緊張感があった。可愛いなんて思ってくれるかな、面白い会話できるかな、ちゃんと目見られるかな、財布落としたりしないかな、駅までの道中で考えるのは自分のことばかりだった。駅に着き、しばらく待っていると相手が来た。同じ学校の同じクラスの同級生。小学五年生の頃から気になっていたが、こうして一緒に休みを過ごすのは初めてだった。少々話す相手ではあったがキッカケ作りが一番難しかった。「買い物のボディガードをしろ」だの「女は喫茶が好きなのだ」だか言った覚えがある。顔が赤くなっていなかったかが心配だった。

朝早い車輌には人も少なく席は空いていたが、窓からの景色が見たいと黄色いワガママを発揮しドアの近くに一緒に立ってもらった。景色は見慣れた木々八割、家二割だったが、朝日に照らされた小さな窓は銀の額縁みたいで、いつもの風景はまるでフランスだかイタリアにある名画のようだった。学校の廊下に貼られた風景画には見入るほど感銘を受けたことは無かったし、絵画の知識も才能も全く無いが、今だけはこの風景を柔らかく描いて残しておきたいと思った。

 隣の彼は、とても中学生とは思えないほど大人っぽい服装で、いつもは同級生なのにそこには一人の男として存在していた。それがわたしを更に緊張させた。実は市外へ出るのはほとんど初めてだった。いや、保護者無しでは初めてである。両親に今日の予定を話すととても心配された。それは漠然と遠いから気をつけて、盗難・紛失・事故・事件に纏わることばかりで、快くは許してはくれたが、本当の所は男の子と二人で出掛けるのが一番心配なのだろうなと感謝半分で聞いていた。そんなこともあり切符の買い方から教わったわたしは万全の面持ちと服装で臨んだものの、彼と並ぶととても子供っぽく思えて顔も背中も熱くなった。

 電車は2両編成で、車体の下半分が黄色くてわたしはそれが好きだった。街は全てが物語である。あの少し傾いた写真館にも、縄をしめた大木にも、錆びを纏った手摺にも、それらを作る人々にもストーリーがある。その全てが大事であると、まっすぐ見守るようにしてこの電車は毎日走っていた。まるで物語の一文に黄色の蛍光ペンで線を引くように。

 いつしか窓枠の名画は風景画にしては色味のない、灰色の街並みばかりを描いていた。1時間近く立ちっぱなしの彼は途中何度も座りたいと漏らしたが、わたしは「たまにはいいじゃない」とあたかも経験があるかのような言葉で押し込んだ。クラスの席替えでも気になる男子と横に座ったことのないわたしが、こんな絶好の状況においても座らないのは決して引っ込み思案なんかではない。十代の若草色の心臓でも終始高鳴り続けるとどうなるのか、自分でも分からなかったからである。しかし胸の熱さとは裏腹に既に足の指は凍て付き感覚がなかった。なぜこんなにもぺったんこの靴を選んでしまったのだろう。カラフルな花柄の入ったキャンバス地の履物は冬物ではなかったが、一番のお気に入りで、特別な日にしかおろさなかった。お洒落は足元からよねなどと思ったのだが、鉄で出来た乗り物の床は思いの外冷たく、わたしの足先からするすると体温を吸い取っていた。まさかお客さん全ての体温をエネルギーとして走っているのだろうか、と、まだどうでも良いことを考えていた矢先、電車はついに端っこの駅へと滑り込んだ。わたしは彼に促され、血の巡りを意識するように二、三回膝を高く上げてホームへ降りた。

 年末の一大イベントまでもう少しということもあって、商店街は混み合っていた。慣れない人混みに脳が揺れる感覚を感じながら、程なく歩き、決めていた喫茶店へと足を運んだ。着く頃には末端という末端は湯気が出そうなくらい温まっていたが、それも一気に引いていった。

『本日は臨時休業です』。彼は笑っていたが、わたしは世界の終わりだと絶望し、泣きそうになった。なんでもっと前もって………その時わたしの携帯電話が鳴った。

 冷めたコーヒーを流し込み、コートからハンガーを抜いて帰る準備を始めていた。準備と言っても手提げ鞄へ放り込むだけだ。会計を済まし、次の誕生日プレゼントはノートカバーでもお願いしようかなと考えながら携帯電話を耳に当てた。「もしもし?」彼女の声はいつも明るくて温かかった。

「そろそろ帰るよ。」「雨、大丈夫?」「もう止んでるから大丈夫。そういえば急にあの日の事を思い出したよ。」「あの日って?」

 私はプロポーズした時の事、とても緊張した事、お互いに泣いて笑った事を話した。ちょうど今日のような寒い日だった。あの日彼女は赤い目でこう言った。「幸せは黄色い色が運ぶんだよ、きっと。」私は右手に傘と黄色い蛍光ペンをそっと握っていた。彼女は電話越しでも嬉しさが伝わるように笑い、間を持って言った。「わたしは、初めてのお出掛けを思い出してた。」「初めてのお出掛け…?いつだっけ」

 私がすぐには思い出せなくて困っていると、彼女は口を結んで得意げに笑った気がした。電話を切り、手に持っていたペンを入れようとケースを開くと、緑とピンクの蛍光ペンが街灯に照らされた。

 この街には黄色・赤・緑の電車がそれぞれの町から町へと走っている。彼女はその電車と喫茶店がなぜかとても好きだった。私も当然それに影響された。しかし教壇に立つ仕事に就いてから、あまり一緒に通えていない気がする。休みが中々合わないでいた。共働きというシステムは大体そんなものである。次の休みは一緒に、電車で喫茶店に行こう。そう考えた時、ああと、私は先程のやり取りを思い返し、微笑みをマフラーにうずめて歩いた。

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