LOG IN

『左側の車窓』 金子サオリ

by 半空文学賞

『左側の車窓』 金子サオリ

「この電車に乗って、進行方向むかって左側だよ。私はその景色がいっとう好きなんだ」

 そう言って、彼は笑った。いや、笑ったのかどうか、本当のところは覚えていない。いつも穏やかにほほ笑んでいる人だったから、きっとそんな顔をしていただろうと、勝手に思っているだけかもしれなかった。

 私がその夢を見るようになったのは、春の初めの頃だった。それは、見知らぬ駅に立っているところから始まる。いかにもローカル線という風情の、古びた駅舎。線路のわきには背の高い黄色い花が揺れ、白い蝶がじゃれるように飛んでいる。春のさかりなのだろうと一目でわかる光景だが、風も香りも、温度も感じない。そのせいで、夢の中にいるのだと気づく。やがて私はやってきた電車に乗る。振り向くと彼がホームに立っていて、扉が閉まる前にこう言うのだ。

「いいかい、進行方向左側だよ。」

 そこの景色が好きなんだ、見逃さないようにねと念を押すように。

 彼が生きている頃に、そんな話を聞いたことはなかった。

 彼は自分のことをほとんど語らず、四国のいちばん小さな県の出だと言うことも、彼が亡くなってから知った。当然、彼の故郷を通るローカル線の名前に、聞き覚えはなかった。しかし繰り返し見る夢の中で、彼はとても大切そうに、そっとそのことを教えてくれるのだ。

 ほら起きて、着くよ、という声が聞こえて目が覚めた。彼の声ではない。向かいの席の小さな男の子が、母親に揺り起こされてぐずぐずと靴を履いているところだった。

 がたん、と列車が揺れる。駅名を告げるアナウンス。ここは、夢と現実のどちらだろうか。進行方向左側。その言葉のままに私は進行方向を確認し、次いで左を見る。目を見開いた。

(うみ、)

 たった二文字の単語が口から小さくこぼれ落ちる。うみ。海だ。窓の外には、空を煮詰めたような色の水面(みなも)が一面に広がっていた。少しだけ開いた窓から、ほのかに湿った潮の香りがする。

「この景色がいっとう好きなんだよ」

 そんなことは知らなかった。海のそばで育った彼のことを。静かにほほ笑む彼が、凪いだ深い海に似ていたなんていうことも。私は彼のことを、きちんと知ろうともしていなかったのだ。それに気づいても、もう、遅い。

 やがて海は見えなくなり、列車は再び街の中に入る。

 頬にあたる風は少し冷たく、耳の縁をやわらかく撫でていく。深い水を湛えた海面はしなやかに太陽の光を反射して、どこまでもどこまでも、続いていた。(了)

OTHER SNAPS